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記事名:「死体を煮て溶かしている」『ごんぎつね』の読めない小学生たち…石井光太が明かす“いま学校で起こっている”国語力崩壊の惨状
リンク:https://news.yahoo.co.jp/articles/00e9486bae20c62b0436d4d86d05f6f9a35a0685?page=1
一言感想
✕国語力崩壊の現状 ◯筆者の想像力崩壊の現状 重要なのは一つの花のほう
感想
ごんぎつねのあるワンシーンで子供が「母親を煮ている」などと答えて筆者が嘆いている記事である。
正直これは国語力崩壊というより物を知らないだけのように感じる。
そもそもごんぎつねは、かなり昔の読み物である。その当時の子供が知ってるものと今の子供が知ってるものに大きな乖離があるのは当たり前だ。
なのでこういう回答が出ても不思議ではない。小学生の中で何人が葬儀に参加した経験があるだろうか?そして何人が江戸時代の葬儀を知っているだろうか?
筆者の「昔の読み物だから子供は知らない可能性が高い」という想像力が欠如しているのが捨てきれない。
正直、重要なのはごんぎつねの後に取り上げた「一つの花」の方であると思ってしまう。
これは完全に国語力崩壊という言葉が似合うほどの酷い解釈になっている。
ごんぎつね
前述した通り、ごんぎつねは90年以上前の読み物である(1932年発表)。
誰だって90年前の読み物を読んだら知らない物が出てきて誤った解釈をすると思う。
「そんな事あるか!」って人は青空文庫などで自分の生まれた年から80年以上前の読み物を読んでほしい。勿論メジャーとは言えない作品で。
当然、知らない物や文化が出てきて誤った解釈を大多数の人はするだろう。
ごんぎつねが30~40年以内の読み物なら嘆くのは分かるが1932年の読み物で嘆くのは少し違う。
葬儀
まず小4から見れば親は勿論、祖父母どころか曾祖父母も元気なのは当たり前にいる。
そして一般人どころか芸能人でも近親者のみで葬儀が行われる昨今、葬式の経験が全く少ない子供も多いだろう。
ただ葬式に出てた経験がある子供も中にはいるだろう。葬式の面でも違う。今の葬式は地域によって一部違いがあれどスタンダードなのは
- 場所:葬儀場
- 参列者:近親者のみ たまに友人や知人
- 食事:仕出し弁当
である。対し、ごんぎつねの時代の葬式は
- 場所:自宅
- 参列者:家族と近所の人
- 食事:自分で作る
のが基本である。
ここで分かると思うが、そもそも葬式に参加してる人がいても遺族の手料理が出ることはないのだ。
大体は葬儀社が用意してくれた仕出し弁当である。
さらに葬儀場でやるのが当たり前になった時代、自宅で葬式をやるというのはジェネレーションギャップに近いものを感じる人もいるだろう。
僕の場合
僕の場合は早くに2人の祖父を亡くしたので葬式に参加した。1人は半分は自宅で行い、半分は葬儀場で行う半自宅葬という一風変わった葬式であった。
結構な田舎だったので親戚以外にも近所の人も参列していた。
ただ出てくる料理は仕出し弁当だった。
もう1人は葬儀場で行う家族葬であった。勿論、仕出し弁当である。
そんな僕はごんぎつねをどう解釈したかと言うと料理を作っているとは感づいていた。ただし何のためにかは想像するのが難しかった。
仕出し弁当しか知らないのでずっとお供え物だと思っていたのだろう。
一つの花
僕は経験や時代の流れなどで受け取り方が全く違う「ごんぎつね」よりも時代背景も分かりやすく最近の作品(1975年発表)ではある「一つの花」の方が重要視するべき箇所だと思う。
戦時中という時代背景と物資の不足という事が分かるだろう。
この部分は正直に言うと国語力の低下を実感させられる。何で文春オンラインはこっちをタイトルにしなかったのかと思うくらいである。
さらに言えばここは筆者の想像力の欠如は関係ない。普通に衝撃的な事が展開されている。
総評
見出しをごんぎつねにしたせいで筆者の想像力の欠如が見え隠れしてしまった記事である。
90年以上前の昔の作品で昔の人と同じような解釈をするのは難しいことである
重要だと思ったのは一つの花の方であった。そっちの方をフォーカスした見出しや記事なら文句を言われなかったのが分かる。